第2章
直感が告げていた。今夜は、あの写真以上に「見応えのあるもの」が待っている、と。
富城ホテル。大島莉理はきっかり時間どおり、1108号室の前に立った。
想像していた甘い喘ぎ声は、どこにもない。
ドアは半開きで、そっと押すとあっさり開いた。
室内は明るいのに、人影はひとつもない。
首を傾げた、そのとき。
壁際のカーテンがすっと左右へ引かれ、ガラス窓が姿を現した。
窓の向こう――大きなベッドの上で、田中尚哉と加藤柚奈が夢中で唇を重ねていた。
熱が上がるにつれ、二人は互いの服を乱暴に剥ぎ取っていく。
莉理は信じられず、よろよろと後ずさった。
「……あ、あなた……あなたたち……!」
声を出しても、向こうは彼女の存在に気づきもしない。
やがて尚哉が柚奈を抱え上げ、その身体をガラスへ押しつけた。裸のまま絡み合い、目の前であけすけに貪り合う。
そこでようやく理解した。
これはマジックミラー。こちらからは見えるが、向こうからは見えない。
深くなるほど、男の息は荒くなり、喉の奥で獣のように唸る。
「柚奈……子ども、産んでくれ」
もう、見ていられなかった。聞いていられなかった。
ここに一秒でも長くいるだけで、吐き気がこみ上げる。
タクシーで帰る途中、下腹に鈍い痛みが走り、冷や汗が一気に噴き出した。
「運転手さん、いちばん近い病院までお願いします」
病院。
一通りの検査のあと、医師は険しい顔で告げた。
「このお子さんは授かるまで大変だったでしょう。いま流産の兆候が出ています。入院して安静にし、いわゆる切迫の治療をおすすめします」
その言葉を聞いた瞬間、莉理の胸に――薄い安堵が生まれてしまった。自分でも驚くほどに。
田中尚哉と出会ってからの七年間が、映画のコマのように脳裏を流れていく。
大学で初めて彼を見た、あの日から。
莉理を妻にするために、尚哉は家と敵対し、跡取りの座すら捨てた。無一文で飛び出し、がむしゃらに働いた。
起業したばかりの頃は地下室暮らし。弁当ひとつを半分こして、二人で耐え抜いた。
結婚してからも、莉理の身体が弱く、子どもに恵まれなくても――尚哉は変わらなかった。
それなのに、どうして。
どうして、こんなふうに突然腐ってしまうの。
「莉理さん?」
医師が反応のない彼女に、声を強める。
「早く治療を受ければ、ほんのわずかですが希望はあります。お子さんを守れる可能性が――」
小嶋主任は言い切らなかった。だが、莉理には分かった。
助かる可能性は、限りなく低い。
子ども……。
ようやく授かったのに、いま――。
いい。守れなくても。
こんな不幸な家庭に、嘘ばかりの無責任な父親のもとに生まれるくらいなら、最初から来ないほうがいい。
莉理は決めた。淡々と、声を落とす。
「小嶋主任……切迫の治療はしません。来週、手術を予約してください」
魂の抜けたまま病院を出て、帰り道、涙が止まらなかった。
努力もせずに「いらない」と言うのは、この子に申し訳ない。けれど――どうしようもない。
「莉理」
家の前で待っていた田中尚哉が駆け寄り、焦った声で問う。
「こんな夜中にどこへ行ってた?」
「気分が悪くて、病院」
莉理は診察の受付票を、さっと彼に渡した。
「どこが? 検査は?」
「大丈夫。低血糖気味ってだけ」
尚哉は彼女を支えながら家へ入る。
「帰りに君の好きな店のケーキ買ってきた。少し食べるか?」
またケーキ。
この半年、尚哉は残業帰りのたびに必ず買ってくる。
郊外の店なのに、なぜわざわざ――と、ずっと思っていた。
いまなら分かる。
そのケーキ屋は、富城ホテルの真下にあるのだ。
田中尚哉と加藤柚奈は、ずっと前から。
私だけが、滑稽なほど騙されていた。
「食欲ない。先に寝る」
莉理はそれだけ言って部屋へ入った。
尚哉も追いかけ、いつものように背中から抱き寄せる。
「莉理、最近ずっと……」
「生理なの」
莉理は冷たく遮った。
柚奈で満たされたばかりのくせに、と喉の奥で毒づく。
「でも、あと数日じゃなかったか?」
「冷たいもの飲みすぎて、お腹が痛くて。早まったの」
適当に誤魔化すと、尚哉は慌てて起き上がり、台所で生姜汁を作って持ってくる。
「熱さどうだ? 温かいうちに」
「お腹、揉もうか? 湯たんぽも用意する」
忙しなく動き回る背中。関心しているようで、吐き気がした。
これが全部演技だとしたら。ここまで完璧に「偽れる」男は、心底怖い。
翌朝。
莉理が部屋を出ると、高橋が汗だくで帰ってきた。
「奥さま、旦那さまが書類を忘れてしまって……届けてほしいとお電話が。私はまだ買い出しが残っていて、お昼が少し遅くなってしまうかと……」
「買い物と昼の支度をして。書類は私が届ける」
莉理は車を呼び、会社へ向かった。
「奥さま、いらっしゃいませ」
受付の女性が丁寧に頭を下げる。
莉理は鞄をカウンターに置きかけて、言葉を止めた。
隣の宅配ボックス。名前の欄に――秘書部、加藤柚奈。
この会社をここまで育てるために、自分がどれほど心血を注いだか。
それを尚哉は、堂々と浮気相手を社内に置くつもりなのか。
